―― ピィーー
指笛の音が、高く鋭く木霊しながら山中に響き渡り、そしてそれは間もなくして力尽きたようにふつりと途絶えた。
"誰"が"何処"で"何の為"に吹いたのか、正確な事を掴めた忍たまは少なかっただろう。
しかし、つんざくような音からは焦燥の意志がはっきりと伝わり、指笛を耳にした生徒らの脳裏にはほぼ同じ推測が閃いた。
多分。恐らく。きっと。絶対。
あの音の近くに目標がいる――
十三、日は明けずに夜来たり 〜ほらほら、もう内容が思い出せませんよの段〜
逃げ出してから、いったいどれだけ走っただろうか?
遠くでドォンドオォンと景気良く宝禄火矢の爆発する音を背に、は一人、山の中を疾走していた。
心臓が強く脈打ち、それに呼応するように脇腹やら肩やらがじくじくずきずきと痛む。
時折休みを取りつつ、しかしできるだけ早く遠くに離れようと急いだ。
あの小平太の指笛は強烈な響きを持って山中に響いたはずだ。
指笛の音の意味は知らなかったが(指笛ならば道具ではないから許容されるのであろう。そういう抜け道を見つけるのも学園長の思いつきの特徴だ)、状況から想像するにチームメイトの緊急招集用といったところだろう。
そうじゃなくても、誰彼構わず異常を知らしめる音はにとって歓迎できるものではなかった。
たぶん、そう間もないうちに小平太と同じチームの中在家長次や、他のチームが様子を見に小平太の倒れている所までやってくるだろう。
そうと分かっていて、近くにはいられるはずもない。だから怪我の痛みをおして逃げているのだ。
ふと、一瞬だけ空に視線をやるが、已然、空には曇天が広がり太陽の位置はつかめない。
あたりの似たような景色とも相まって、今どの方向に走っているのか明確にできないのが不安だった。
ただ、小平太が向かっていた方向に学園があるだろうことと、山の斜面が進行方向に向かって下り坂であったことから、小平太がいた所は山の中でも学園に近い地点なのだろうとだけは大まかには予測できた。
そこからかなり走ってきた分、学園からはずいぶん遠のいた場所だろう。
あと少し走ったら少し長めに休憩をとってもいいかもしれない。
どこかに隠れやすい場所があればいいのだけれど。
そんな風に考えながら走っていたは、不意に大きく跳躍した。
タンッ、と木の葉の床から突き出た岩の上に着地し、ちらりと肩越しに後ろを一瞥すれば、古びたロープが頭上の木の枝に渡されているのがよく見えた。
古典的な吊り上げ式の罠である。
一つため息をついてから、は罠をそのままにして再び走り出した。
こうして無造作に仕掛けられた罠に出くわすのは、小平太の元を逃げ出してから片手では余るほどあった。
学園の裏手にあるこの山の奥まった所には、授業などで仕掛けられた罠が無造作に張られっぱなしになっていたりする。
下級生や一般の人たちがよく通る山道やその付近、または埋火などの危険な罠は大体解除されるが、奥まった場所にある罠は忍たま達の訓練の一環に使われたり、あるいはドクタケなどの不審者が来た場合の足止め用にしたりするために、そのままにしてあるのだ。
放置された仕掛けは月日と共に消滅するものもあったが、そうでないものは風化して辺りと馴染み、非常に見つけ辛い効果的な罠となり果てていた。
それでも何とか見つけて避けるが、その度に大きく動くハメとなり傷が痛むのでは誰とも知れない仕掛けた人間をうっすらと恨んだ。
「七松先輩がやけに飛んだり跳ねたりしていたのは、こういった理由だったんですね……」
わき腹を押さえながら納得していると、不意にまた宝禄火矢の音が遠くで響いた。
逃げている間に何度か聞いていた音。大方、立花仙蔵のチームと何処かが争っているのだろうとあまり気にしていなかったが、この音から遠退くように移動していたからこんな罠の多いところを通るハメになっているのも事実だ。甚だ迷惑である。
(……ん?あれ、何かひっかかる――)
ような。と、心の中で最後までつぶやく前には思考を停止させた。
と同時にさっと木の陰に隠れ、呼吸を細めつつ整える。
独りきりになって数刻、久方ぶりに人影を見つけた。
本当に久しぶりであいすみません。
***
「そこにいるのは誰だ?」
隠れてから程なくして投げかけられた声に、一瞬だけ身を強張らせた。
ハッタリや勘違いなどではなく、間違いなくこちらに意識が向けられている。
隠れる前に気づかれていたのか、それとも気配で察せられたのか。前者であろうと後者であろうと、今の状況は変わらないのでこの際どちらでもいい。
重要なのは、逃げるにも不意をつくにも不利になったということだけだ。
「出てこないならこちらから行くけど」
言葉どおり、一歩踏み出す音が聞こえた。息を潜め、じっと辺りを探るが、他の忍たまらしき気配はしない。六年生レベルになると遁術もプロ並みなのであまり確実ではないが、それでも自分の勘を信用するならどうやら木の向こう側にいるのは一人だけのようだった。
どの道、逃げるにはタイミングを逸してしまっている。
ゆっくりと近づいてくる足音が完全に距離を縮めてしまう前に木の陰からするりと出れば、相手ははっと息を呑んだ。
「――っ、?」
目を見開いて、そう聞いてきた人間の顔はここ最近よく見ていたものだった。
灰茶のふわふわとした髪に面長の顔。濃紺の装束。見まごう事なき。
「不和雷蔵先輩?」
「あ、いや、違う。僕だ。鉢屋三郎だ」
不和雷蔵の顔を慌てたように横に振り、ついでにぱたぱたと手を振った。
チームメイトである五年ろ組の鉢屋三郎は同じく五年ろ組の不和雷蔵の顔を常時の顔としているが、しかし。
鉢屋と見せかけて本物の不和という場合も十分にありうるから、つい観察するようにじぃっと見てしまう。
「月はひさかた、吉野は?」
「え?」
唐突な問いに、問われた人間は一瞬だけ詰まったが、すぐに言葉を返した。
「……みよしの」
「…………山は?」
「あしひき」
「――やっぱり、
本物ですか」
「信じてもらえたか?」
安心したのか、不和雷蔵の顔から強張りを解き、彼はほっと息をついた。
それを見た合言葉を出した人間は柔和に微笑んで緊張感を感じさせない足取りで彼に近づき、その手を取った。
「?」
「怪我はされてませんか?」
「え、あ、うん、大丈夫、だ」
手を握ったまま至近距離からじっと瞳を覗き込まれ、なんだか良く分からない戸惑った。この四年生の見目が悪くないことは知っていたが、しかし、思っていたよりもずっと顔が良かった。思わず視線が泳ぐ。
「良かった。怪我されてないのでしたら」
虚空に視線をさ迷わせたまま、四年生にしては存外しっかりとした手の感触が意外だと思っていると、不意に低い声が耳朶を叩いた。
「手加減しなくてすむ」
嫌な予感。
本能的に握られた手を引き抜こうとするが、引き抜くどころか逆に後輩とは思えない力強さで引っ張られた。体が傾き、手首を押さえられたまま肩を押され、体と地面がぶつかった。ぐっと息が詰まる。
あわてて起き上がろうともがくが、びくともしない。かわりにぎりぎりと後ろに回された腕の関節が悲鳴を上げた。
「いたたたたた!」
「おっと、ごめんごめん」
力を入れすぎた、と悪びれなく言う声には覚えがあった。
ついでに、この手本のようにきっちり決められた間接技にもだ。
「まさか、伊作先輩ですか!?」
「あ、分かった?」
四年生の変装をしたまま、善法寺伊作は無駄にいい声であっけらかんと肯定した。
「君は
本物(の不和で間違いないね?」
「――っ、そうです……」
雷蔵はもがくのを諦めて、素直に己であることを肯定した。しらばっくれたところで、十秒も時間稼ぎにならなさそうだったからだ。
こうやって伊作に技をかけられるのは六年と五年の合同授業以来であるが、相変わらず抜け出す隙が無い。
善法寺伊作はあまり武闘派というイメージはない先輩だが、実際に手合わせをすると勝ちに持っていくのが非常に難しい相手であることが分かる。人体に詳しいせいか、やたら人の急所を正確に狙ってくる上、一度関節技を決められると並の忍たまでは抜け出せなくなるし、最悪の場合、間接を外されるのだ。
ただ、十回に九回は不運が到来し、勝負がうやむやになるので彼が勝つことも稀であるが。
「けど、なんで伊作先輩がの格好を?」
「そりゃあ、油断させるためだよ。あと、奇襲予防」
「……奇襲って予防できるものでしたっけ?」
まるで病気か何かのような扱いに、保険委員長たる片鱗を見た気がした。
「の顔はあまり知られていないから、この格好ならいきなり攻撃は受けないと思って」
のことを知っている四年生と長次、あと動物的本能を持つ小平太は別として。
長次と小平太のところ以外はチーム内に四年生が必ずいるけれど、残り時間が後半日をきった今ならこの雷蔵のように必ずしも全員一緒に行動しているとは限らない。
なのでこの格好は効くと思ったのだ。それに。
「だからといって、何でなんですか?他の、もっと狙われない姿にしたほうが確実だったんじゃ……」
「まあ、そうなんだけどね……」
でも、けても困るけど、狙われないのも困るんだ。伊作は声には出さず心中でそう一人ごちた。
は今一番狙われている姿で、だからこそ、他のチームをかく乱するために離れてしまった彼女の代わりに囮としてこの格好をしているのだ。
そして引っかかったのが目の前の五年生である。
「それはそうと、いつから僕が三郎じゃないと気づいていたんですか?」
疑問に思っていることだったが、口にしたのは疑問を解消するためではなかった。
こうして話しているうちに別行動を取っているチームメイトに見つけてもらえれば、と思ってのことだ。
そんな雷蔵の意図に気づいているのかいないのか、面倒見が良いことで評判の六年生は丁寧に説明を始めた。
「手がね、違ったからさ」
「手、ですか?」
違った、と言われて雷蔵は地面についた顎を軸に首を傾げた。
「手はね、案外人の顔よりも正確にその人の素性を教えてくれる。農民なら爪に泥が混じっているし、侍なら剣だこに左親指の付け根の刀傷、お姫様なら真っ白な手、ってな具合にね」
「僕も三郎も同じ忍たまの手ですよ?」
職も年も性別も同じだから、大きな差異はなかったように思える。真剣に見比べたことは無いが、見てすぐ分かるような違いなどそうそう無かったはずだ。
「似たような顔、同じ職でもその持つ癖とか習慣は千差万別だからね。そこから手に違いが出る。例えば、不和、君は弓を引くとき親指が少し入りすぎるクセがあるね」
「なんでそれを!?」
ぎょっとして身じろぎし、押さえつけられた腕がギシリと痛んだ。
確かに弓を引くときに独特のクセが出るが、指摘されるほど近いところで弓を引く姿をこの六年生に見せたことは無い。大体、クセといっても微かなモノだったから、先生とて把握していないと思っていたのに。
「左手の種子骨の頭の皮膚が微かに変色して硬化していた。親指が弦に掠りつづけるとそうなるんだよね」
まさしくその通りである。
伊作の言うとおり、雷蔵の親指の付け根の皮膚は擦れて厚くなっている。が、それに気づいて、その上理由まで分かる忍たまがいるとは。
六年生はどうしてこうも変な方向に人並み外れている人が多いのだろうか?なんて、件の四年生もつい最近思ったことを雷蔵も思う。
手を握ったのは確認のためだったのかと、今更ながら動揺してしまった自分が恥ずかしく思えてきた。
目をじっと見つめてきたのももしかして自分と三郎を見分けるためだったのかもしれない。或いは視線を逸させるためか。
「それから指の腹に細い切り傷が幾つか。これは紙を扱う人間――つまりは図書委員の手だ。長次の手はもっと関節が太いし傷もある筈だから、君は不和雷蔵だなと」
「…………恐れ入りました」
雷蔵はただただ感心し、脱力したように地面に右頬をつけた。土の湿った匂いと青々とした草の匂いが鼻腔を満たす。
成績がどうのといわれている人でもやはり六年生は六年生である。侮ると怖い。
「あと、合言葉」
「え?違ってたんですか?」
「いや、完璧だったよ。月の一文だけで分かるなんて流石は図書委員会だ」
関節を決める手を緩めずに背中から屈託のない感心したような声が降ってくる。
通常、吉野といえば桜、山といえば森か波だ。しかし、月にひさかたと続いたので和歌の枕詞と掛詞を合言葉にしていると分かった。
伊作の言うとおり、伊達に図書委員会はやっていない。
「でも多分長次とか仙蔵も分かると思ったからね。一応引っ掛けにしておいたんだ」
六年生の中でも教養の高い二人を引き合いにして伊作は言う。
「ひっかけ、ですか?」
「そう。山の問いには答えなくていいんだよ。沈黙が正解なんだ。でもそうと知らなければ、答えてしまうからね」
知識を持つが故にそれが仇となる。
そして雷蔵のように答えられたことに対して安心し、一瞬油断するのだ。
見事に引っかかった五年生はガックリとうなだれた。
「それにね、鉢屋はには自分の事を『私』と言うんだよ」
「え?」
「何でだろうね?」
「……三郎だからじゃないですか?」
「あ、そう言われると凄く納得できる」
伊作の苦笑する気配が伝わる。
三郎が変装と相手によって一人称をころころ変えるのは珍しくない。
先輩と後輩には『僕』、同輩には『俺』、外部の人間には『私』、と決まっているようで実はのような例外もわりとある。
彼の顔同様、定まらないのが彼らしいと雷蔵は思っている。
それはともかく、
「伊作先輩、始めっから僕だと気づいてたんじゃないですか!」
雷蔵が『私』と言ったのはかなり始めのほうだ。
手の形だの合言葉だの殆ど関係ないじゃないですか、と喚けば、いやいや、という返答が返ってきた。
「不和はこの顔を知っていただろう?だからさ」
この顔というのはもちろんのものだ。
先ほど間近でみた顔が脳裏に思い出され、雷蔵は少しだけ身じろぎした。
「さっきも言ったとおり、の顔は僕らほど知られてないからね。でも一目見ただけで名前を言い当てられてちょっと迷ったんだよ」
もしかしたら本当に鉢屋三郎なのかと。に対して『僕』と言うことだってあるかもしれない。(学友が知ればそんな風に考えなくてもいい事まで考えるからお前は隙を作りやすいんだと言うだろうが)
だから合言葉で鉢屋かどうか確認し、手を握って誰かまでを判別した。これで雷蔵ではなく仙蔵や長次だった場合、逆に拘束される危険もあったはずなのに、迂闊ともとれる行動をするところが鷹揚なこの先輩らしい。
もしかしたら、六年生相手でも渡り合える秘策でもあるのだろうか?
「僕がのことを知っていたのは、何回か三郎を委員会に呼びに来たのを見たことあったからですよ。それには図書室の常連ですから」
図書の貸し出しを管理する図書委員会の上級生なら顔と名前ぐらいは一致するのだという。
中在家長次が迷わずを捕らえようとした(と鉢屋から聞いている)という事実からそうではないかと予測していたので、伊作はやっぱりそうかと素直に納得した。
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別名、かっこいい伊作を本気出して考えてみたの段。
このあとツケがくるのかこないのか。