纏わりつくような湿気の含んだ、不快さを感じるぬるい空気に混じって、煤けた臭いと煙が森の一画に霞のように立ち込めていた。
時折、在るとも無しともつかぬような微風が森を通り抜けるが、煙や臭いを完全に浚ってしまうにはあまりに弱すぎる。
黒色火薬の煙の臭いは嗅ぎ慣れているが、だからといって無神経に吸い込んでいいものではない。大量に吸い込むと中毒を起こすのだ。
とはいえ、気をつけてさえいれば、密室でもない外で中毒を起こす事は殆ど無いが。
「妙だな」
漂う火薬の臭いとは違うキナ臭さに、六年い組の立花仙蔵は無意識のうちに眉を寄せていた。
十三、日は明けずに夜来たり 〜にげている合間にの段〜
明るくなって随分と経つが、茂った木々の葉と分厚い鈍色の雲のせいで太陽ははっきりとは見えず、今がどのぐらいの刻限なのかは正確にはつかめない。
それでも感覚的にあと数刻もすれば開始から半日が経つ事は間違いなかった。
それなのに、今だ目標の三人――善法寺伊作チームを捕らえるどころか、足取りさえ追えていないのはどういうことか。
立花仙蔵は腕を組み、少しばかり頭を傾けた。
予定では、そろそろ伊作たちと一戦交えるか捕らえているはずであったのに。
仙蔵は足元に視線を落とし、予定が狂う羽目になった原因の一端を見やった。
そこには常盤色の装束のいたるところに焦げをつくり、地面に突っ伏している男が一人、転がっている。
(いろんな意味で)見慣れた姿はクラスメイトの六年い組潮江文次郎のものだ。
少し離れた場所には同じような焦げを作った(足元の人間よりは随分とマシな具合だが)五年ろ組竹谷八左ヱ門と四年い組綾部喜八郎も倒れている。二人とも文次郎のチームメイトである。
やったのは当然、仙蔵たちである。
多少の差異はあれど、こうして返り討ちにしたのは何もこのチームだけではない。
実習が始まってから約半日の間で、かれこれ片手で余るぐらいの数は相手にしてきた。
目標を捕らえる実習にしてはいささか多い数で、あたかも他のチームの巻物には目標が自分たちとでも書いてあったのかと疑いを持った程だ。その為、襲ってきた敵を容赦なく屠ってから巻物を検めてみたが、目標はやはり善法寺伊作のチームとだけしか書かれていなかった。
目標にされていた訳ではない事に安堵した反面、妙だという気持ちも大きくなったが、とりあえず、最近作った試作の宝禄火矢を試すのに丁度よかったという理由で、仙蔵は何故彼らが襲ってくるのかという疑問はあえて捨て置くことにした。
そして時間が経ち――
濃くなってきた湿気共々、他のチームを相手にするにはそろそろ鬱陶しくなってきていた。
返り討ちにするのは構わないが、伊作たちの足取りを探るのを妨害されるのは甚だ邪魔なのだ。
だから、先送りにしていた"何故自分たちのチームが襲われるか"について、仙蔵は考えることにした。
「てっきり実習にかこつけて日頃の鬱憤でも晴らしにやってきたものだとばかり思って有無を言わさず葬ってきたが――」
不穏な独り言に「日頃何をしてるんですか……?」とか、「葬ってません。まだちゃんと生きてます」とか、後輩達から声があがったが、仙蔵は聞こえなかった事にする。
実習の目的は六年は組の善法寺伊作、五年ろ組の鉢屋三郎、四年は組のの誰かを捕らえて学園に連れて行くこと。
伊作達を狙うのは自分たちのチームを含めて二十近くのチーム。チームの数に比べて、圧倒的に目標の数が少ない。
三人とも捕まえることが出来ても、半分以上があぶれることになる。なので、敵となりそうな相手は早々に退場してもらおうと他のチームが考えてもおかしくはない。
襲ってきたのは今ここに転がっている潮江文次郎の他、割と血の気の多い者達だったから、尚更そう思える。
これが自分たちではなく
他のチームであったならば。
そう、いの一番にこの立花仙蔵率いるこのチームを狙うのはおかしいのだ。
何故なら、このチームは今回一番優秀な人間がそろったチームだからである。敵の数を減らそうと思ったとき、返り討ちを恐れてまず真っ先に外されて然るべきなのだ。
仮に、目標が一つだけならば一番優秀なチームが狙われるのは頷ける。しかし少ないとはいえ目標は三人いる。敵対するぐらいなら手を組んだ方がずっといい。
だから最初は、実習にかこつけた腕試しか、敵愾心を捨て切れなかった者達が日頃の恨みをぶつけに来たのかと思ったわけだが、どうも数が多い。
有無を言わさず伸してしまったのは少々良くなかったかもしれない。
理由ぐらいは聞いておくべきだったと仙蔵は少しばかり後悔したが、しかし襲ってきた相手はどうも全員が全員頭に血が上っていて話せるような余裕を感じなかった。
その様子を思い出したところで、仙蔵はピンときた。
「もしや――これは……やられたか?」
「立花先輩、なにか気づかれたんですか?」
仙蔵が妙だと呟いてからずっと気配だけ彼に向けていたチームメイトの五年ろ組の不和雷蔵は、何か閃いたような彼の声にクラスメイトを縛る手を止め顔をあげた。
仙蔵は雷蔵の問いにすぐには答えず、考え込むように俯いた。そして再び顔を上げたときの彼の瞳には確信めいた光が宿っていたのを雷蔵は見た。
「ああ、これは――
借刀殺人(の計だ」
通りの良い声を響かせないように抑えて告げられた答えに、雷蔵は瞠目し、同チームの四年い組の滝夜叉丸は弾かれたように顔を上げた。
ありもしない噂を振りまいて敵同士を戦わせる計略を借刀殺人の計、あるいは
二虎競食(の計という。
邪魔な二者を争わせて第三者が利益を得るという、いわば漁夫の利を得るための術だ。
それはつまり。
「潮江先輩たちが僕らを襲ってきたのはその術にかかっていたから、ということですか?」
雷蔵の言葉に、仙蔵は小さく頷いた。
「文次郎のチームだけではない。今まで襲ってきた奴らも恐らくは術に嵌ったクチだろう」
仙蔵は鼻を鳴らして間抜けな、と毒を吐いた。
一体誰が術を、とは後輩二人とも言わなかった。言わなくても、思い浮かぶのはたった一つのチームしかない。
二人の思考を読んだかのように、仙蔵は言葉を続けた。
「伊作たちが借刀殺人の計を使ったと考えれば、今まで私たちが無駄に襲われてきたのも納得いくだろう?」
「確かに、そう考えるのと色々腑に落ちますね」
「しかし、先輩方、借刀殺人の計は流言を相手に流さなければ成り立たないのですよ?ですが、善法寺先輩方がそれをするには問題が――」
仙蔵の言葉に納得する雷蔵の横で、滝夜叉丸が異議を唱えた。
「各チームに狙われている伊作たちが、噂を流せる筈が無い、か?」
仙蔵の言葉に、滝夜叉丸は勢いよく頷いた。
「そうです。噂を立てるために他のチームに近づくなんて、無謀すぎます。術をかけるどころか、捕らえられて学園に連れて行かれてしまいます」
「四十点だな」
「はい?」
唐突に告げられた点数に、滝夜叉丸は眉を顰めた。
「いや、四年生だから六十点ぐらいはやろうか」
「あの、立花先輩?」
「不和はどう思う?」
唐突に不和雷蔵に話をふれば、彼は戸惑いながらも口を開いた。
「ええと……七十点はあげていいんじゃないでしょうか?」
「いや、そっちじゃない。伊作たちに借刀殺人の計ができるかどうかだ」
「あ、ああ、そのことですか」
ぽんっ、と雷蔵は手を打った。
そして、視線を横に泳がせてから少し考え、やや躊躇いがちに口を開いた。
「三郎の変姿の術を使えばそれも可能かと……思います」
クラスメイトである鉢屋三郎が他人の姿を借りて人を怒らせるような
真似(は珍しいことではなくて、容易に想像が出来た。
仙蔵は満足げに「百点」と言って、四年生の後輩に向き直って講義でもするかのように人差し指をピッと立てて口を開いた。
「いいか、平。借刀殺人の計の本質は敵同士を対立させる所にある。そして、なにも流言を流すだけが互いを争わせる元になるわけじゃない。向うには
あの(鉢屋三郎がいるんだ。我々の格好で他のチームに喧嘩を売れば、噂を流すよりも確実に油を注げるだろう?」
そして伊作たちが借刀殺人の計を仕掛ける利はかなり大きい。
なにせ術にかかって争っている間は捜索の足が止まるし、どちらが勝っても探しにやってくる人数が減ることになる。そうなれば見つかる危険性が低くなるからだ。
危険も付きまとうが、成功すればこれほど効果的な作戦も無いだろう。
仙蔵の説明は実にわかりやすかった。
はたして、喧嘩を売った相手に返り討ちにされる危険性だってあるのに、それでもやるだろうか?という疑問が滝夜叉丸の頭に浮かんだが、しかし次いで浮かんできた善法寺伊作のチームの面々の顔が脳裏に浮かんだ瞬間、疑問は遥か彼方に飛んで行ってしまった。
善法寺伊作はともかく、鉢屋三郎は人をおちょくるのが好きな性格であるし、は出来ると思ったことならいくら危険あってもやる。普段は無茶はあまりしないが、今回は少し事情が違うから、まず間違いなく本気を出してくるだろう。
本気を出す建前は己の委員会が発端になっているからとかそんな理由をつけているだろうが、実際の所は――二日前にかわした約束を思い出し、滝夜叉丸は「面倒な……」と小さく呟いた。
仙蔵はその呟きを肯定ととらえた。
「伊作か鉢屋か、誰の作戦か知らんが、なかなか的確な作戦じゃないか」
いっそ感心したようにクツクツと笑う仙蔵の顔を見ながら、滝夜叉丸は疲れたようなため息をこっそりもらした。
伊作か鉢屋か。仙蔵は上級生二人の名前を言ったが、滝夜叉丸の脳裏には確信的に茄子紺色の装束をまとった幼馴染の姿が浮かんでいた。
伊作や三郎が借刀殺人の計を謀った可能性も捨て切れない。そうだとしても、の性格からして何も策を練らないとは考えられなかった。
は色々と策を考えるのが好きだ。
奇策を気取っているが、自分に言わせればあれはややこしくて面倒でまどろっこしく策を重ねているだけだ。ただ、それだけに策の全容を全て推測するのが酷く難しい。
先ほど思わず呟いてしまったが、本当に面倒なのである。
「それで、どうしましょうか?そういうことなら他のチームにこの事を話して協力してもらうよう頼んでみますか?」
滝夜叉丸と仙蔵の会話が終わったとみて、雷蔵が声をあげた。
連携して数と力で押せばいくら妙な作戦を立てられても対応がしやすい。
的を得ているはずの提案だったが、しかし仙蔵は頷かず、肩をすくめて冷ややかな視線を雷蔵の奥にいる常盤色の装束に向けた。
「襲ってくる奴らが大人しく話を聞いてくれるような奴らだったら、最初から借刀殺人の計になどかからんだろうよ。伊作たちが頭に血が上りやすい奴らを狙って術にかけているのは、今までの面子から判断できる。そこに転がっているギンギン馬鹿がいい例だ」
六年間同じクラス、同じ部屋である気安さからか(あるいは文次郎だからだろうか)、仙蔵の言葉に容赦はない。
「それを力ずくで抑えてから説き伏せるのも億劫だろう?」
「億劫、ですか……?」
雷蔵は反芻し、眉を寄せた。
確かに骨が折れる事だが、しかしそれ以外の方法となるともっと大変なんじゃないかと思うのは何も自分だけではないはずだ。近くにいる滝夜叉丸も怪訝な顔をしている。
けれど仙蔵はそうは思わないらしい。
なにやら嫌な予感がする。
「だいたい、他のチームをけしかけられたぐらいでこの私が倒せると思われているのも心外だ」
「心外って、立花先輩、まさか――」
これ以上先輩が何かを言う前に止めるべきか、それとも一応最後まで聞いておくべきか、雷蔵が躊躇している間に仙蔵は言葉を続けた。
「襲ってくる奴らを蹴散らしたうえで、伊作たちを捕らえてやる。この私を嵌めた借りは、きっちり返礼させてもらうぞ」
瞳に苛烈な光を宿し、酷薄な笑みを口元に浮かべた仙蔵の顔を目撃してしまった後輩二人は、口元を引きつらせながら、思わず目標である三人に対して合唱した。
貴方も充分血の気が多いです。
とは、言えるわけもなく。
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