「よくもこの平滝夜叉丸に嘘をついたな!」

 雨はすっかり上がり、日はすっかり落ちてしまった薄暗い学園の敷地内に、滝夜叉丸の怒りの声が響き渡った。







六、わりと些な大ごと







「私は食堂で聞いたはずだぞ、怪我はないかと。それでお前はなんと言った?問題ありませんと言わなかったか?」

 責める声色は先の怒鳴りを恥じるように抑えられていたが、代わりに呆れたような響きがある。

「しっかり覚えているくせに聞かないでください。その時は本当に問題なかったんです」

 ひそめた言葉はそっけなく、しかし何処か諦めたような気配を含めては返した。
 音量を控えて喋るのは怒られている気まずさ二割、残りの八割は滝夜叉丸が非常に近い所にいるせいだ。

「百歩譲ってそうだとしてもだ、どうしてそんな状態で穴埋めなんかした?どうして人を庇ったりした?怪我をしているときに自ら悪化させるような行動をなんでしたんだ!」

 喋っている間に苛立ちが募ってきたのか、抑えていたはずの語調は次第に強まり、最後には「このアホ!」とまで付け足された。
 これは相当怒っているな、と表情の見えぬ滝夜叉丸の感情を感じ取り、は心中で溜息をついた。
 普段自らの賛美を紡ぐその口は実に滑らかに動く。普段でも冗長なのにそれが咎めの言葉となれば気が滅入っても仕方が無い。
 穴を埋めることになったのは誰のせいですか、とか、そもそも穴のことを貴方も言いませんでしたよね、とか反論できる箇所は多々あったが、それを返すのは躊躇われた。滝夜叉丸の怒りが心配から来るものだからだ。
 いっそ逃げ出してほとぼりが冷めるまでどこかに隠れてしまえば、彼は言いたいことをいい(滝夜叉丸はヒートアップすると周りが見えなくなって一人で喋り通すのだ)、自分は反論せずにすむと良い事づくめ(説教を聞く誠実さまでは持ち合わせていない)なのだが、そういうわけにもいかなかった。

 なぜならば、は今、滝夜叉丸の背に背負われているからだ。





 が怪我をしていることが発覚したのは、落とし穴からタカ丸と綾部が脱出した後のことだった。 
 二人が出て行った後、立ち上がったの様子がぎこちないことに目ざとく気づいた滝夜叉丸が、すかさず問い詰め異常があることを白状させた。
 泥水に汚れることも厭わず座っていたのは、単にすでに汚れてしまっていたからという理由からではなく、立っているのが苦痛であったからで。タカ丸の為と勝手に勘違いしたが、縄梯子を頼んだのも怪我をして力の入らなくなった己のためであったのだ。

 降りようとするタカ丸と綾部を制し、滝夜叉丸は一人のいる落とし穴の底へと降りた。

「何処を怪我した?」
「肩を」

 うちつけました、と穴の上にいるタカ丸には聞こえぬよう、は静かに伝えた。
 庇っておいて怪我したなど格好悪いと苦笑する。

「他には?」

 肩だけで座り込むのはおかしいと更に聞けば、はまるでオマケのように。

「些末ですが、お使いのときに負ったお腹の傷も開いたようです」
「それは大ごとというのだこの馬鹿者ー!!」

 穴の中に滝夜叉丸の怒鳴り声が響いた。




 そしては滝夜叉丸に背負われて穴から脱出し、冒頭に至る。


 タカ丸と綾部には雨と泥でぐちゃぐちゃに汚れていたことを理由に風呂場に行かせ、滝夜叉丸との二人は一度長屋で着替えてから保健室へと向かっていた。

「背負われなくても歩けますよ、私」

 肩は動かすのも躊躇うほど痛め(腹を庇ったせいだ)、腹の傷は打ち付けたり雨が沁みたりしてジンジンと熱をもって痛いが、穴を登るのはともかく、歩けないほどではない。
 着替え終わったを迎えに来た滝夜叉丸にそう告げたが、彼は煩いと言って無理やり自分の背にのせた。

「新野先生に見て頂くまでお前の言うことは聞かん」

 怪我を隠していたことが余程腹に据えかねているらしい。
 濡れた頭から湯気が立ち込めそうな怒り具合だなとはと思った。
 雨で取れてしまった前髪のカールを巻き直すどころか、一度拭いただけで来たであろう髪はまだ随分と湿っぽく、自分に磨きをかけることに余念の無い彼にしては珍しい。ちゃんと乾かさないと痛むぞと、いつもはに口すっぱく言ってくるのに。

「甘やかされて育てられたのに、どうしてこう世話焼き性になったのでしょうねぇ」

 昔を思い出すかのように遠くを見つめ、小首を傾げて呟く。

「世話を焼かざるを得ない人間が傍にいたからに決まっているだろう」

 呆れたように滝夜叉丸は言った。

 と滝夜叉丸は学園に入る前からの知己であった。
 親同士が仲が良く、幼少の頃よりよく遊んだりした。
 故に互いに知っていることも多いし、言いたいことも遠慮無しに言う。この学園で知る者は少ないが、二人はそれだけ気心が知れている仲であった。

「なるほど、綾部と四年間同室というのは貴重な学びどころになったのですね」
「何でいない人間に嫌味をいわねばならん。……いや、七割は当たっているが。だが残りの三割はお前だからな!」
「照れます」
「褒めていないっ!」
「知っています」
「だあああっ!!」

 柔らかい口調と丁寧な物腰のせいか、学園には真面目で親切なイメージをに持つものが多いが、は存外人をからかうのが好きな人間であった。同じ委員会の先輩、鉢屋三郎の影響もあるかもしれない。
 とはいえ、ここまでおちょくるのは滝夜叉丸ぐらいだけども。

 こいつ放り投げたろかっ!

 思わずそんな衝動がこみ上げてくるが、背負っていくと決めた以上それを放棄するのは己のプライドが許さない。変わりにと言わんばかりに滝夜叉丸は歩調を速めた。


「そうそう、これは些末なことじゃないと思うのですが」

 保健室の近く、人の気配が途絶えた道に入ったところで、はやっぱりどうということ無いように、しかし彼の耳に出来るだけ口を近づけて切り出した。

「タカ丸さんにバレそうになりました」

 滝夜叉丸が息を呑むのが気配で伝わった。歩調が落ちる。
 は何が、とは言わないし、滝夜叉丸も何が、とは聞かない。
 バレそうになる。それは唯一つのことを示している。

 それは即ち、が女性であるということ。

 幼いときよりを知っている滝夜叉丸は当然その事実を知っていた。
 知っているが故に、秘密を守る協力者でもあった。

「庇ったときか?」
「いえ、それはありえません。……わからないでしょう?」
「う、うむ」

 密着された体に意識が向いて、滝夜叉丸の頬に僅かに熱がともる。それは背中に女性らしい起伏を感じなくても、だ。
 は普段から女性ゆえの華奢さや丸みを隠すために何枚もの革を重ねて作った帷子のようなものを着込んでいる。
 胸の部分にはより硬いなめした木の皮が縫い付けられ、腰の部分には胸との起伏がなだらかになるようより厚く重ねられているそれは、ちょっとした刃物の攻撃なら防げるぐらいの硬さだ。お使いのときに村娘に変装して帷子を脱いでいなければ、腹に傷を負うこともなかっただろう。
 なのでこの上から触っただけではただの平坦な体としか感じない。落ちたときに上に圧し掛かったタカ丸が気づくとは考えにくかった。

「何処で、だ」

 背の温もりを忘れるようにやや強引に夕方の出来事に意識を飛ばしつつ、滝夜叉丸は聞いた。

「落ちるときにタカ丸さん、私の二の腕を掴んだでしょう?それで違和感に気づいたようです。とりあえず会話の矛先を変えて誤魔化しておきましたが」

 右手を見つめていたタカ丸の瞳から見て取れたのは驚きと困惑と否定、そして疑惑。
 そんなタカ丸の思考を別の方向へと向けさせるべく幾つか言葉を選び、彼に必死に話題を変えさせ、あえて気づかぬフリをしてそれに乗っかった。まあ、容姿のくだりは若干本気であったが。
 実は同い年という話をしたのも、意識をそちらにいかせるためだった。

「でも、歳まで言ったのは失言でしたかね」

 十四、五歳なら声変わりをしていていい年齢だ。のそんなに声は高くないとはいえ、ハスキーというほど低くも無い。努めて落ち着いた声色を出すようにしているが、やはり男にしては高い方だ。
 見た目に騙されて声変わりも遅いのだろうと無意識に勘違いしてくれればいいが。

「腕を掴んだだけで分かるものなのか?」

 鍛えていないものとどう違う?と滝夜叉丸が問えば、私も触り比べたことが無いので分かりかねますとは答えた。

(まあ……自分が鍛えて無くてかつ、女性と親しくなったことのある方なら分かるんじゃないでしょうかねぇ。流石は都会の髪結い師。きっともてたんでしょうね)

 十五歳と年頃でもあるし、いい人がいたのかもしれない。

 とりあえず、そんなことを言えば背負う男が張り合い始めそうだったので口には出さないでおく。
 女っ気のあまりない(無論ある人もいるが)学園の生徒達とは違い、タカ丸には少し気をつけなければいけないかもしれない。

 一年は組には注意しろ。

 滝夜叉丸の警告は的を得ていたようだ。彼も一年目のは組に相違無い。




 にとって自分が女である事実は割とどうでもいい事実であったが、ここにいる間はばらすわけにはいかなかった。
 それはこの学園にいる為の制約であった。





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タカ丸のいい人云々はただの勝手な想像です。
でも15歳で都会にすむ髪結いなら過去に一人や二人お付き合いしている娘がいてもいいかと。