休み明けの早朝。
は夜も明けぬうちから起きだし、すぐに着替えて井戸へとむかった。
朝の湿った冷たい空気がなんとも心地よい。
冷たい井戸水で顔を洗い、そのまま近くで体を軽く動かす。丸一日寝ていただけですっかり体が鈍ってしまったような気がした。
お腹の傷はまだ塞がってはいなかったが穴に落ちたときにぶつけた肩の痛みはだいぶ引いていた。これなら激しい運動はまだ駄目だが手裏剣ぐらいは投げられるだろう。
怪我に障らないように下半身と腕だけを入念に解きほぐしていると、四年長屋から人が出て来るのが見えた。
遠目にも目立つ特徴的な髪からクラスメイトの斉藤タカ丸だとすぐに知れる。
「おはようございます」
「わふ……おはよ〜……」
が声をかければ、タカ丸は眠そうに頭を傾けたまま欠伸をなんとか噛殺して挨拶をした。
「君、朝早いんだね〜……ふわああ」
「あはは、眠そうですねタカ丸さん。でも、もう少し寝ていても大丈夫なんですよ?」
日が出るまではまだ四半時はある。薄暗い朝霧の中起きてくるのは朝の鍛錬をする忍たまか、ずっと寝てばかりで早く体を動かしたかったぐらいだ。
まだ学園に来て日が浅いため起きるタイミングがつかめていないのかと思い、はタカ丸にそう教えてやるが、彼は半分目を瞑りながら首をゆるゆると横に振ってふにゃらと笑った。
「いやぁ、君の髪結わせてもらおうと思って」
約束果たして貰いに来ましたと、彼は言った。
十、質問は賢く計画的に
髪を結わせて。
の正体を口にしないのと彼女を女扱いしない代わりに彼と約束したのがこれだった。
そんなことでいいのかと少し拍子抜けしたが、彼が髪結いだったのを思い出して了承した。
無理難題を言ったらそれなりの対応をするつもりであったが、そうならなかったことには安堵したものだ。もしかしたら露骨に圧力をかけていた綾部に怖気づいたのかもしれない。
滝夜叉丸や三木ヱ門同様、綾部もの正体を知っている。つかめない性格をしているが、けして秘密をバラそうなどとはせず、それどころか秘密を守るために真っ先に行動に移すのが綾部だった。分かりにくい性格だけど行動は三人の中で一番直接的で分かりやすい。ややこしい人物である。
まるで大きな猫に懐かれているようだというのがの感想だ。
仕事を前にしたタカ丸の目には既に眠気は見当たらなくて、流石は元髪結いとその集中力には感心した。
手に持った鏡に袖をたくし上げ楽しそうにの髪を梳くタカ丸の様子が映りこむ。
これは本気で髪を結いたかったのだとすぐに分かった。
「楽しそうですね」
「そりゃあ、髪結いですから。それに、こんなに綺麗な髪だとやっぱり嬉しくなるよ」
「そういうものなんですか」
にとって髪を結うのはただの作業でしかなかったのでタカ丸の反応は興味深かった。
はあまり己を磨くことに興味がない。滝夜叉丸が熱心に己を磨くついでににもあれこれ口を出すので、髪の質をはじめ他も色々良いように保たれているが、本人は割りとどうでも良かった。
辛いとは思わないが楽しいとも思わない。そんなものだ。
肌を磨き、髪の手入れをするぐらいなら、火縄銃の筒を磨き、武器の手入れをするほうが余程為になるし楽しかった。そんなことだから余計に滝夜叉丸に口を出されるのだが。
不思議そうに彼の仕事を見ていたのが鏡越しに伝わったのか、タカ丸はクスリと笑った。
「サラサラ艶々な髪を触ってると幸せにならない?」
「うーん……寧ろ時折邪魔になるから切りたくなります」
タカ丸のいう感覚が分からなくて、は少しズレた返事を返した。
の髪は結ってなお腰の辺りまである。
量は多くないとはいえ、その髪を変装するとき全てカモジの中に納めるのは結構面倒なのである。それに火器を扱うときにうっかりすると髪に火が移り危ないのだ。流石に最近はそんなヘマもしないが一、二年生の頃はよく毛先を焦がしてはスルメの焼けるような臭いをさせていた。
本当は茶せん髷、とはいかなくとも肩の辺りまで切りたいのだが、滝夜叉丸と三木ヱ門が(めずらしくも)徒党を組んで断固として許してくれないので今に至る。
「こんなに綺麗なのに切るなんてもったいない!」
背後の人物も断固阻止派の人間のようだ。
これでは当分髪を切ることは許されなさそうだなと、はひっそりと溜息をついた。
いっそ不慮の事故なんかでバッサリいかないだろうか。
「そういえば」
が不穏なことを考えているなど知らず、その沈黙を善しととらえたのかタカ丸は不意に思い出したという風に声を発した。
「幾つか聞きたいことあるんだけど……」
なるほど、とは目を細めた。髪結いを申し出たのはこの為でもあったのか。
中々どうして、抜け目がない。
「一つだけ、なら答えて差し上げます」
目を瞑り、悪戯っぽく言ってみせれば、タカ丸は不満そうに声を上げた。
それでも髪を結う手を止めない。
「ええー、一つだけ?」
「一つだけです」
意地悪ではない。全部答えるには時間が足りないのだ。
もうすぐ朝食の準備が出来たことを知らせる鐘がなる。他の忍たま達が起き出して来たのか外の気配も騒がしくなってきた。
でもその理由は告げないことにした。特に意味はない。
「えーと、じゃあ……」
余程沢山聞きたいことがあったのだろう。暫く手を動かしながら思案し、随分間を空けてから口を開いた。
「明日から混合実習って聞いてるんだけど、どういうことやるの?」
「四、五、六年生でチームを作って出されたルールに乗っ取って何かしら争うんです」
完。
「って聞くのそれですか!いつでも聞けるようなこと聞きますか普通っ!」
「ああ!あともうちょっとで出来るからこっち向いちゃ駄目!いやでも僕どーゆーことやるのか凄く気になってたんだよっ!」
だってほらついていけないかもしれないし、と振り向きそうになるの頭をガシッと固定して、タカ丸はわめいた。
いや、分かるけどでも状況的におかしいだろう。優先順位が間違っていやしないか?
抜け目ないとか思った自分が馬鹿だったとは心中で肩を落とした。
「というか、タカ丸さんは暫く実習の参加はなかったと思いますが」
「あれ?」
「基礎を身につけるために他の学年の授業に参加されるはずです」
学級委員長として学園長よりそう聞いている。
タカ丸自身もそのようなことを聞いていたと思い出したのか、視線を彷徨わせ。
「…………洗髪には糖水をつかっているの?」
「今更質問変えても駄目です」
そしてそれもいつでも聞けることです。
貴重な質問タイムは乾いた鐘の音によって終了した。
「さあて、出来た」
鐘の音が聞こえて少ししてから、タカ丸は手を止めた。
どーお?と少し大きめの鏡に彼女の髪を映し、それをが手に持った手鏡で確認する。
「おや、これはいいですね」
首が振りやすい。最初にまずそう思った。
の長い髪は頭の後ろですっかり纏められ、一房も垂れていない様子は煩わしさがない。
「これで綺麗な簪なんか挿したらもっと可愛いと思うんだけど」
「可愛さはいりません」
はすっぱりと切り捨てた。
年同様、可愛いも禁句なのかとタカ丸は心にメモをした。
「けどこれなら実習などで邪魔にならなさそうでいいですね」
あくまで見栄えのよさではなく邪魔か邪魔じゃないかというのがタカ丸的には切なかったが、喜ばれるのは嬉しかった。
が髪をあまり大事に思っていないことは話から良く分かった。こんなに綺麗な髪なのにどうしてないがしろに出来るのかタカ丸には不思議でしょうがないが、それを懇々と諭すよりも(これが痛みに痛んだ髪をしていたのなら諭すを通り越して説教にはいるのだが、幸か不幸か彼女の髪は滅多にないほど美しい)どうにかするのが髪結いの役目だ。
彼女に合っていて喜ばれる髪型を目指し、それが上手くいった。髪結いとして幸せな瞬間である。
「明日の混合実習、これで行きましょうか。火薬も使うつもりですし」
だから今日は解いていいですか?
君、気遣いとか労いとか時々でいいから思い出してください。
実習には向いているけど普段の髪型にするつもりは一切ないらしい。
タカ丸との攻防に決着つくまでそう時間はかからなかった。
だって髷がなかったら目立つじゃないですか。
← 前 次 →