気配と足音を消し、霧に姿を紛れさせ、気配を探りながら森の中を静かに駆けること数刻。
 夜が明けたころ、彼は懐の中に収めている巻物に書かれた一文を思い出した。


 『乙となるチームは善法寺伊作、鉢屋三郎、の三名からなる一チームとする――』
 

 善法寺伊作も鉢屋三郎もよく知っている。どちらもよく見かける顔である。
 しかし、字面だけならの名が一番見覚えがあった。
 
 線の細い綺麗な字を書く人間だ。
 この四年間、定期的に図書室から本を借りていくのでよく覚えている。
 兵法や軍記物が好きなのか、それらの貸し出しカードには殆どの名前が書かれている。逆に、娯楽重視の講談物は有名どころ以外殆ど名前を見かけない。
 借りた本はいつも期限中に返す。一日二日で返されることもある。が期限当日まで借りている本は九割の確立で良い本だ。
 見た目は、派手ではないが四年生の多分に洩れず整った容姿をしていたと思う。
 ややふっくらした頬が年よりも少し幼く見せるが、立ち振る舞いが大人びているので差し引いてちょうど良いと思う。
 髪は明るい色の多い四年生にしては珍しく、墨よりも黒い腰まである艶やかなストレート。

 手繰った記憶の姿は、十丈約30m先の薄っすらと見える後姿と重なり、六年ろ組中在家長次は縄標を構えた。








十三、日はけずに夜来たり 〜いの段〜








 それが縄標だと認識した時には既に、体が宙に浮いていた。
 腕が抜けてしまいそうなほど強い力で斜め後ろに引き抜かれ、霞の中に木々の濃い緑と曇天の白い空が視界に広がる。それも一瞬のことで、すぐさま受身もままならない状態でズベシャッという音を立てて地面に引き倒された。

「――っ!」

 のびきった草と濡れた地面が衝撃を多少なりとも緩和したが、しかしそれでも肩に突き抜けるような痛みが奔り、一瞬身動きが取れなくなる。
 脳裏に休み前にタカ丸を庇った時の光景が閃くが、悠長にそんなことを思い出している暇もなく、体はどんどん引きずられ、肩がギシギシと痛んだ。

(でも――)

 引っ張られて肩は傷むが、地面と接触したときの体が強張るほどの鋭い痛みはもう通り過ぎていた。
 新たな痛みのおかげで僅かながら考える余裕が出てきたところでは右腕に絡まった縄を右手で掴む。
 引きずられながら痛みを堪えて腕に力を入れて体勢を整え、腰板に隠した小さな刀を左手で抜き放つ。そしてそれを振りかぶろうとするが――その前に、ブツッという鈍い音と共に引っ張る力が消えた。

「大丈夫か!」

 降ってきた声に答える間もなく左腕を引っ張られ、強引に立たされた。勢い余って前のめりによろけるが、肩を支えられて何とか踏みとどまる。
 ふわりと、何かの薬のような独特の香りが鼻を掠めた。
 見れば、意識のない伊作を肩に担いだ三郎がすぐ傍に立っていた。彼はを見ずにの背後――縄標が飛んできた方向に鋭い眼差しを向けていた。
 も振り向けば、地面に刺さった手裏剣(縄を切るために鉢屋が投げたものだろう)と――霞の中から走ってくる大柄な影が目に入った。それが誰なのか、霞む視界でもはっきりと分かる。
 六年ろ組、中在家長次。
 踏み分ける草の音静かに、素早く、そして妙な威圧感をもって迫ってきている。

「逃げるぞ」

 鉢屋は真剣な調子で低く短く告げると、懐からいくつか煙玉を取り出し、ポイッと四方へと投げた。
 途端、ボンッという音共に煙が噴出し、あっという間に広範囲に渡って視界が奪われる。
 それでも微かに聞こえてくる足音は止まらない。
 煙が噴出すのと同時に後ろに飛んで退避した目掛けて、何かが煙を突き抜けて飛んできた。
 予備がある、というのは同じ六年生である立花仙蔵の台詞だったろうか。先ほどと似たような縄標の錘が再びに迫ってきた。
 しかし今度はその正体を知っている。は不用意に腕で受け止めたりはせず、手にしていた短刀に縄標を絡ませると、縄が引っ張られるのと同時にそれを手放した。
 吸い込まれるように煙の中へと消えてゆく錘と短刀。これでもう一度 縄標を投げるまでの時間を多少は稼げるだろう。その僅かな時間の合間に進路を変えて逃げてしまえば、この煙の中、縄標は意味を成さなくなるはずだ。
 空いた手で痛む肩を押さえながらそんな計算を頭の中でして、縄標の伸びてきた方向から背を向けて逃げようとするが――刹那、煙の中から腕が伸びてきて息を呑む。

「――!」

 いつの間に距離を詰められていたのか。

(僅かに聞こえていた足音で距離を測っていたけれど――)

 それが仇となった。
 足音が聞こえていたのはワザと聞かせていた為だったのと依月は悟った。それを証拠に、今は殆ど長次の足音は聞こえておらず、彼との距離を見誤った。今投げつけられた縄標は、長次がとの距離を測る為のものだったのか。
 逃げるために作られた視界ゼロの状況をあっさり逆手に取られた形に、うっかり感心してしまいそうになる。
 は己を叱咤し、伸びてきた腕に掴まれまいと素早く身を後退させるが、踵を返しかけた足は思いの他うまく動かない。

――捕まる!

 そんな考えが頭を過ぎり――グイッと腹に押されるような負荷がかかった。
 目の前まで伸びていた長次の腕が急激に遠のく。いや、遠退いているのは自分だ。腹を抱えられて長次の方向を向いたまま後退している。

「攻撃するなよ。逃げる方向がばれる」
 
 音量を抑えた声が横から聞こえてくる。三郎のものだ。姿は煙でよく見えないが灰茶色のワサワサとした髪が視界に入る。
 抱えられたまま煙の中を突っ切るまでそう時間はかからなかった。
 煙の幕を抜け、元の霞がかった視界が戻ってくると、三郎の姿と彼の反対側の肩に抱えられた伊作の姿が確認できた。

、走れるか?」
「走れます」
 
 腕を振るのは辛いが走れないことは無い。
 がはっきりと答えると、三郎は素早くだけ降ろし、また森の中を駆ける。
 人ひとり抱えているとは思えないほどのスピードで走る鉢屋の隣についていくの耳に、ピィーッという甲高い音が三回、鳴るのが聞こえた。

「先輩、今の音――」
「長次の指笛だ……」

 鉢屋のものではない声が、寝言のようにぼんやりと呟いた。
 今まで鉢屋の肩に担がれて突っ伏していた伊作が首をもたげて顔を見せる。

「善法寺先輩!」
「痛たた……やあ、また迷惑かけたみたいだね」

伊作は頭の上に(担がれて頭が逆さになっているから下か)投げ出されていた手を動かして頭をさすり、存外暢気な言葉をつぶやいた。しかし、自分たちがどういう状況に置かれているのかは瞬時に把握したらしい。

「さっきの指笛、長次が連絡手段に使うやつだ。彼に、見つかったんだね」
「――はい。油断しました」

 は少し速度を落として鉢屋の背後に回り、伊作の顔を見て言えば、彼は少し申し訳なさそうな顔をした。

「ごめん、僕が気を失ったから――鉢屋、ありがとう。もう走れるから降ろしていいよ。大変だろう?」

 三郎の背に手をついて上体を起こし、首を捻って彼の顔――後頭部を見て伊作が言えば、三郎は前を向いたまま「そりゃあもう」と、あまりそう思っていないような調子で飄々と言った。

「しんべヱよりは軽いですけど、伊作先輩は身長があるぶん抱えづらくて」

 先輩、ちょっと縮んで貰えませんかね?
 そういう真似が出来るのは初期のアニメの君だけだから。

「ま、きりのいいところで降ろしますんでもう少し荷物になっていてください」

 あんまり喋ると舌噛みますよ、と鉢屋は忠告した。



 

 伊作を降ろしてから三人が走ること数分。
 長次から完全に離れた所で三人は周りに人気のないことを確認し、身の丈の倍はあろうかという岩の陰で立ち止まった。
 空気中に漂う湿気が上昇した体温を冷やしてくれるが、肌に纏わりつくような感じが少し鬱陶しい。

「善法寺先輩、吐き気とかはありませんか?」
「ああ、僕は大丈夫。それより――」

 頭の怪我を気にしてが問えば、伊作の鋭い眼差しが返ってきた。
 この目つきは随分と見覚えがある。は気おされるように僅かに後ずさる。

「留三郎の手裏剣を受けた傷、ちゃんと手当てしてないだろう?見せて。それと、また、、肩をぶつけたね?それも見るからそこに座って」
「い、いえ、私も大丈夫ですから」
「それは僕が見て判断する。どうせ僕が何で気絶していたのかも話さないといけないし、それなら手当てしながらの方が効率いいだろう?」

 怪我のことになると人が変わる。というか頑固になる。こうなった伊作を止めるのはには無理だ。
 さっきのような事があったばかりで腰を据えての手当てには抵抗を感じ、鉢屋に助けを求めるように目線を送れば、彼は的確にの考えを理解して案を出した。

「手当てはいいですけど、この格好でさっきの二の舞――他のチームに見られて襲われるのは御免です。早いとこ、どこかのチームの姿を借りましょう」

 鉢屋の言葉にもそれならと諦める。

「では、食満先輩のチームに……」
「いや、久々知と三木ヱ門が向こうで倒れているところを小平太に見られている。長次のチームに追われているとしたら留三郎のチームに変装するのはちょっとまずい」
「七松先輩?」
「ああ、それも含めて話すよ。というか、同じ話なんだけどね……」

 自分よりも明るい色のかもじを取り出しながら、伊作は苦笑した。





 中在家長次のチームは四〜六年生の人数の関係上、二人だけしかいない。
 四年も五年も実習に参加する人数は同じなので、五年生が引いたクジから洩れた六年生二人がその二人チームになるというのは決まっていたことだ。
 一人足りないハンデがあるから六年生二人でちょうどいいだろうという考えであったが、しかし。
 中在家長次のパートナーが、同じ六年ろ組の七松小平太となると話は少し変わってくる。
 何せこの二人は六年間、同じクラス、同じ部屋であったせいか、性格も動きも真反対なのに――いや、だからこそピタリと息のあった動きが出来る。
 武器なしでも接近戦だけで充分戦える小平太と、中距離援護から近距離攻撃まで何でもこなせる長次の組み合わせは下手に三人要るチームよりも連携が取れ、はっきりいって脅威である。
 立花仙蔵のチームと並んで警戒すべきチームであるから正直見つかりたくなかったのだが――



「君たちが留三郎の相手をしている間に僕は留の格好をして久々知と三木ヱ門に近づいたんだ。そして針と睡眠薬で二人を眠らせた所までは良かったんだけど、その後すぐに小平太に見つかってしまって……いや」

 そこで伊作はいったん言葉を切った。
 座り込んでの左腕に止血のために巻かれた(依月自身が応急処置したものだ)布を取り外す伊作の格好はすでに彼のものではない。
 伊作はその借り物の丸い眼を視線にさ迷わせ、ややあってから言い直した。

「小平太に轢かれてしまって」
「……なんですかそりゃ?」

 周りを警戒して見ていた三郎が思わず自分の声と口調で突っ込めば、伊作は困ったように眉を寄せて笑った。

「言葉どおりの意味だよ」

 後ろに何か気配を感じたと思って振り向いた瞬間、頭を思いっきり足蹴にされた。と同時に「あ、悪い留三郎。間違えた!」というあっけらかんとした声が遠退きざまに聞こた。
 暗転する視界の中、僅かに見えたのは小平太の走り去る後姿だったという。

「あの時は何が起きたのか分からなかったけど、多分これであっていると思う」

 お陰で三木ヱ門の怪我の具合を見れなかったと嘆く。いきなり頭を足蹴にした小平太への不平など零さない辺りがこの男らしい。

「七松先輩は別に善法寺先輩と知ってやったわけじゃないんですね」
「うん。知ってたら今頃学園まで引きずられてた筈だから」

 運が良かったよと傷に血止めを塗りながら呟く伊作に、は「いえ、無駄に轢かれた時点で不運です」とは言うのは止めておいた。

「……兵助達に麻酔針使ったんですね」

 と、三郎。

「ああ。久々知には気づかれそうだったからプスッとね。意識の無かった三木ヱ門には睡眠薬飲ませたから二人とも実習中は確実に起きないよ」

 くるくるとの腕に包帯を巻きながら、借り物――不破雷蔵の顔でニコリと笑う。
 顔の持ち主と良く似ている邪気のない笑顔だったが、しかしそれを見ていた鉢屋は貼り付けた仙蔵の顔を引きつらせた。なんとなく空恐ろしく見えたのである。

「じゃ、あと針は三、四本ですか」
「いや、それが……」

 三郎が残りの麻酔針の数を計算すれば、伊作が言い辛そうに困り笑いをした。
 彼の表情から次に言われる言葉があっさりと思いつき、三郎は「まさか……」と呟いた。

「小平太に蹴られたときに僕が持っていた麻酔針、全部落としてしまったみたいで」

 いやーまいったと、乾いた笑い声を発しながら頭をかく伊作。
 見事な不運の連鎖だ。さすが不運委員長。キングオブ不運。
 顔を抑える鉢屋の足元でが「それはまずい」と滝夜叉丸の顔で言った。
 鉢屋はが苦言でも呈するのかと思ったが――

「実習が終わったら探しに行かないといけませんね。誰かが踏んだりしたら危険です」
「そうだよね。眠るだけならまだしも、雑菌でも入ったら大変だ」
「うん。そんな事だろうと思ったよ」

 誰か変わりに突っ込んでくれないだろうか。
 論点のずれた二人の会話を聞きながら、三郎は疲れたような目で虚空を見た。




← 前 次 →