修正:2010/11/08



 仙蔵たちがいるはずの場所に移動していた途中で、休憩しましょうと言ったのは鉢屋だった。
 長次に見つかった場所を避けて頂上付近を突っ切る道を進んでいたため坂道がきつく、走り通しでは持たないと判断したのだ。実習はあと半日以上あるので、体力は出来るだけ温存しておくに越した事はない。
 鉢屋の言葉に伊作が了承し、どうせ休憩するなら朝ごはんがわりに木の実を摘んで食べようと言って、三人は木が多く生えて見通しの悪い場所で走るのを止めた。
 不意打ちで始まった実習に、兵糧丸以外の食料は持参できるはずもなく、朝が過ぎ、そろそろお腹の減る時間となっていた。
 兵糧丸では栄養は取れるが空腹までは満たされない。せめて干し飯があればいいのだが、丸々一日使って実習するとは思っていなかったので準備していなかった。
 一日ぐらい食べなくても動けるが、しかし、食べた方が集中力が増すのも事実だ。小さな実のような微々たる物でもないよりずっといい。

 伊作は、変装に使っていた紺青色の頭巾をはずし、それをに渡してカゴの代わりに持っているように指示し、自分は木の茂った葉の合間に見える黒っぽい塊をプチプチ摘んで中へと放り込んでいく。木苺にも似た実はこの時期に熟れる桑の実だ。

「桑の実は冷え性や滋養にいいんだよ。桑の木の根皮は桑白皮といって解熱や鎮咳の作用があって、葉っぱはお茶にして飲めるんだ」

 薬としての効果を求めているわけではないが、伊作はそんなことを説明しながら実を摘んでいく。

「伊作先輩、これって食べられますか?」

 ちょっと離れた所にいたた鉢屋が葡萄のように房になった実を手にしてやってきた。葡萄とは違い、やや楕円をえがいたその実の色は鮮やかな緑色だ。

「あー、それはキブシだから食べられないな。枝はむくみに効く生薬になるけど、実は黒に近い染料になるぐらいだから渋いんじゃないかな?」

 黒の染料になるということは渋みの元であるタンニンを多く含んでいるということだ。
 「食べたこと無いけど食べてみる?」と伊作は冗談めかして言うが、鉢屋は「勘弁してください」と苦笑して手にした実をほうって、かわりに反対側の手に持った赤い丸い実を伊作に見せた。

「こっちはどうです?」
「あ、これは食べられるよ。ユスラウメだね。さくらんぼみたいな味がして美味しいよ」

 伊作の言葉に鉢屋は手にした実を口に放り込み、「本当だ」と感心したように呟いた。
 伊作が何かと野草に詳しいのは、薬となる草木を勉強した副産物だ。最近は特に予算の関係で自ら薬草を取りに行ったり育てたりする機会が多く、その知識の幅も実用的なまでに広がっている。
 保健委員会は不運ゆえに妙なたくましさがある。
 その不運筆頭の保健委員長である伊作は、まだ雷蔵の変装をしたままだった。鉢屋ももそれぞれ仙蔵と滝夜叉丸の格好をといていない。先に進むことを優先してここまで来たが、ちょうど休憩をいれるし、ここら辺で変装を変えてもいいかもしれない。

「このぐらいでいいか」

 伊作が集めた実を見てパンパンッと手を払った。
 が両手で掴んで弛ませた頭巾の中には、充分な量の桑の実が溜まっていた。

「桑の実には毛虫がつきやすくてね、実にその体毛が残っている場合があるから一度洗わないと駄目なんだ。確かあっちの方に川があったはずだから鉢屋も呼んで――」

 そういってがいる場所とは反対側をみて指をさす伊作。
 つられてそちらをみるの視界の端で、何かが動いた。
 途端、脳裏に"敵"の文字が閃いた。
 が振り返る間もなく、ガサッという藪を揺らす音がして、大きな影が勢いよく飛び出してきた。
 は正体を見極める前にバラけるように後ろに飛び退った。
 そうして僅かながら距離をとったところで影の正体を知る。

「七松先輩――」

 小平太が向かってきた方向から完全に後ろを向いていた伊作は行動が一拍遅れてしまうが、小平太はそちらを狙わなかった。
 彼は先に後退した人間の紫色の装束を見定めると、大きく踏み込み――猪のような猛進さでの体に肩を勢いよくぶつけた。
 そこはちょうどお使いのときに斬られた脇腹の辺りで。

「――っ!」

 あまりの激痛には声にならない悲鳴を上げ、反撃する間もなく意識を手放した。






 

十三、日はけずに夜来たり  〜なしは続くよどこまでもの段〜








 少し昔の夢を見た。
 自分を乱暴に肩に担ぎ、山の中を走っていく男たち。
 肩の骨がお腹に当たって、揺れるたびにお腹が痛んだ。
 この先には男たちのねぐらである あばら屋がある。
 そこには身売り目的で連れ去られてきた娘たちがいるということをは知っていた。何せ過去に実際起きたことをまた夢見ているのだから。
 しかし、その場面にたどり着く前に、急に視界が一変した。
 暗い闇夜の中に自分はいた。
 頭上には丸い月が煌煌と輝き、手元を妙に明るく照らしていたが、周りに立つ複数の影が邪魔で、辺りは伺えなかった。
 手に何かを握り締めた自分は、何故か酷く緊張していた。
 自分の心臓が変にドキドキなっている。
 苦しくて痛くて思わず胸を押さえれば、ドッドッドッという打つ音が一定のリズムで聞こえてきた。
 そのたびに痛んだ。
 心臓ではなくもっと下の――はて、何でお腹が痛むのだ?


「――つぅっ」

 口から零れた己の声で、は急激に現実に引き戻された。

 パチリと勢いよく目を開けて、最初に見えたのは緑色だった。
 揺れる視界に入り込む常盤色と、濃鼠色のモサモサとした物体。
 は目覚める前のことに思考を巡らせ、すぐに七松小平太の肩に担がれていることを理解した。
 どうりでさっきから頭が逆さまだったり鼻がぶつかったりするわけだ。
 は両拳をギュッと握り、小平太の背を押しのけるように上体を少しだけ起こした。
 変装が崩れていないことを祈りつつ、揺れで舌をかみそうになりながら、声を張り上げる。

「――な、七松、先輩っ」
「お、気がついたか!」

 の声に、走るのは止めずに小平太が明るい声を出した。の位置からは顔は見えないがきっと顔は笑っているだろう。
 だがの方は笑える筈もなく、借り受けた特徴的な眉をキュッと寄せ、変装が見破られているのか否かは分からなかったから、とりあえず見破られてないこと前提では会話することにした。

「なんの真似ですかこれは!なぜ――この平滝夜叉丸を攫うのです?」
「そりゃ、お前が滝夜叉丸じゃないかもしれないからだ!」

 無駄に元気に勢いよく、しかしはっきりしない答えが返ってきて、は一瞬、冷やりとするべきか安心すべきか迷った。
 完全にばれているわけではないようだが、しかし、明らかに彼の見当は正しい。
 七松先輩にしては考えが回りすぎている、と思った矢先、

「伊作のチームにいる鉢屋三郎は変装の名人だからな!別のチームに変装している可能性も視野に入れるべきだ、という長次の意見に私は従ったまでだ!」

 つまり、七松先輩自体は何も考えていらっしゃらないんですね。とはは言わなかった。
 意見があったからだろうと何だろうと、変装している自分を的確に掻っ攫う勘の良さは充分に脅威だ。中在家長次の冷静な分析と合わさると、本当に危険なのだと改めて認識する。
 ただ単に一番近くに自分たち善法寺チームがいただけなのかもしれないけれど。
 とりあえず、まだ完全にばれたわけではないということが今の話しでよく分かったので、は、それならば、と痛む脇腹に意識をやらぬように努めながら口を動かした。

「七松先輩は勘違いされています!私は正真正銘、平滝夜叉丸です!ですから降ろしてください!」
「いいや、やっぱりお前は滝夜叉丸じゃない」

 滝夜叉丸の演技にはそれなりに自信があった。何せ小さいときからの付き合いだ。
 それなのに、さっきの曖昧さはどこへやら、小平太にきっぱりと否定され、はいぶかしんだ。

「においが違う。滝はこんなに鉄臭くない」

 ………………貴方は犬ですか?

 六年生も人間だからな。と言った委員会の先輩の声が空しく頭の中で思い返された。
 確かに鉄器はいたるところに仕込んでいるが、忍者は無臭が基本だ。
 だからそんな臭いがしないよう気をつけて手入れをし、今も直接肌に触れないように仕込んでいるのだ。(鉄と人の汗と交じり合うことで鉄臭さが生まれる)
 だから、小平太の鼻に随分近い位置に自分の体があったって分からないはずなのに。それが分かるなんてどういう嗅覚しているのか。
 人間辞めてるんですか?というのは暴言じゃないと信じたい。別に"臭い"という単語にショックを受けたわけではない。ええ、断じて違う。

「それに、滝はもっと重たい」

 その言葉は"臭い"という単語よりも遥かにに衝撃を受けさせた。
 がら空きの首筋に肘鉄を入れなかった理性の賜物だ。首は良くない。うん、首は。
 まあ、攻撃したとしても六年生だからあっさりかわされたかもしれないが。(今のにはどんな人外の行動をしても六年生だからだで済ませる自信がある)

「鉄の臭いは戦輪を沢山装備しているからかと思ったんだが、だったら重くなるならともかく軽くなるってのは変だろう?だからお前は滝じゃない」

 小平太の筋の通った説明が、妙に腹立たしい。
 普通の婦女子ならば体重が軽いといわれて喜ぶところなのだろうが、にとって体重が軽いというのは、攻撃力が劣ると言われているとしか受け取れない。
 少年たちに混じって生活するにとって、それはけして誉れではない。

「まあ、それでも違うかもしれないから――」

 小平太がそんなことを呟いた次の瞬間、急にの視界に空が広がった。
 脇腹に感じていた痛みが消え、重力が反転する。地に付かない足が不安定に宙をかく。
 はわけも分からず、安定を求めて小平太の肩口にしがみついてから、小平太がの腰を抑えていた手をの体ごと下にずらし、彼女の体を小脇に抱えるようにしたのだと気がついた。 

「なにを――」

 するのですか。
 が皆まで言う前に小平太は空いている左手で茄子紺色の頭巾を掴み、が頭を抑える間もなく引っ張った。
 唐茶の髪の毛の下から烏羽色の髪がサラリと零れ落ちる。

「ほら、やっぱり滝夜叉丸ではないだろう!」

 の顔に残っていた変装の一部も剥ぎ取り、小平太はカラカラと得意気に笑った。

2010/03/09追加

「そういうわけで、お前は伊作でも鉢屋でもないからだと思うんだが、当たっているか?」

 学園目指して山を駆ける小平太は、自分の右肩にしがみ付いた後輩の顔を覗き込んだ。
 得意げな顔の小平太と目があったは、前方を見ずに走るという危なっかしい行為に頬に冷や汗をかいた。

「いいえ、人違いです。私はただの四年生その一です。せいぜい、全校集合の絵に数合わせで描かれるようなとっ てもモブな忍たま風情にすぎません」

 正式な登場は二十年後予定ですのでそれまでお待ちください。

 などと、少し前に十六年目にして登場した五年生の(今の所)最大の個性を奪うような発言もしてみるが。

「あー、よくわからん!ま、このまま学園に行けば分かることだよな」
「先輩、最初から私の言葉聞くつもりありませんでしたね?」

 脇見をしているというのに不思議と危なげなく走る小平太に向かってが口を開けば、彼は耳元で難じられてはかなわないと、の体を再び俵のように肩に担ぎ直した。
 ずしりと再び腹に痛みが生まれる。

「ああもう……」

 再び小平太の背中と対面したは、小さく呻いた。
 言動に惑わされないというか、人の話を聞かないというか。
 この押しの一手な先輩に一年生のときからついていけている滝夜叉丸にはほとほと感心する。グダグダな滝夜叉丸を気にしない小平太といい、まったくいい組み合わせである。
 しかし、にとってはいい組み合わせどころか相性が悪い。
 力や瞬発力で敵わないのは当然の事ながら、こと実戦において(のみ)の頭の回転の速さ、勘の良さ、術の技量など、六年生の中でも群を抜いている。
 四年生ごときが絶対に真っ向勝負をしてはならない相手だ。
 言葉で惑わそうにも、先ほどのように(まあ、さっきのはあまりに稚拙な嘘であったが)多少のことならば聞き 流してしまう性格だ。
 小平太のことを心得ている六年生ならば、彼を言葉で引っ掛ける事も容易いのだろうが、あいにくとはそこまで小平太という先輩のことを熟知していなかった。

(本当に、やりにくい)

 軽快な調子で小平太の足が地に着くたびに腹の傷が軋み、思考が乱されるのも良くないと思う。
 藪を払い、岩を飛び越え、肩には人を乗せ。
 常人ならば四苦八苦しそうな状況での山越えも、体育委員長である七松小平太にとっては大した障害でもないらしい。
 けして平坦ではない道なき道を、彼はものともせず突き進み続ける。
 そんな野性味あふれる動きに、はひたすら呻きそうになるのを堪えなくてはならなかった。
 は眉間に皺を寄せながら、小平太の背を腕で突っぱね、上体を起こした。
 山特有の似たような景色が視界の脇を流れていく。途中気絶していたので今どの辺りに自分がいるのか分からなかったが、この小平太の走りっぷりだと多めに見積もってもあと一刻30分 でついてしまうのではなかろうか?
 は軽く計算をして、痛みとは別に顔をしかめた。
 学園に連れて行かれる事も、一刻もこの痛みに耐えなくてはいけない事も、どちらも冗談ではない。
 躊躇っている暇も余裕も、現在進行形で減らされ続けている。正直、この状況が長く続くのは危険だ。

(この状況を切り抜けるには――)

 今ある手持ちの武器は火薬、鉤縄、飛び道具、そして――
 は手札を幾つか思い出し、その中で最も有効と思う手を使うことにした。
 小平太に気づかれぬよう左手で右腕に巻かれた半手甲の下に人差し指と中指を滑り込ませ、目的のものを引き抜 く。
 を担いでいるこの六年生のよって元の持ち主の分は全部駄目になってしまっていたが、最初に渡された 分だけはまだの手元にあった。
 善法寺伊作の麻酔針。正真正銘最後のひと針。
 は伊作から借り受けた針を、己の腰に置かれていた小平太の手の甲へと深く突き立てた。

「――いっ!?」

 鋭い痛みが手の甲に閃き、小平太は驚いての腰から手を浮かせた。
 その一瞬の隙には懐から鉤縄を取り出し、素早く頭上近くの木目掛けて投げつける。
 鉤先がクルクルッと木の幹に撒きついたのを確認すると、左の掌に縄を巻きつけ、腕に力を込めた。縄はピンと 張り、の体が先に進まなくなる。しかし小平太の動きは止まらない。
 結果、の体は小平太の腕からスルリとすり抜けた。

「あれ?」

 手にあった感触と肩にあった重みが失せたことに小平太は慌て、ズザザッと土煙を上げながら後ろへと向きなおった。
 その目に己の手から逃れた四年生が振り返りもせずに一目散にその場から離れようとしている姿が映る。

「逃がすか――」

 茄子紺色の背中目掛けて小平太は大きく一歩踏み出した。
 三間約5.5mの合間を一足で縮め、その背に後一歩で届くというところまで 一瞬だった。
 の動きも素早かったが小平太の跳躍の方が圧倒的に勝っている。
 小平太は逃げるの体を捕らえようと、更に踏み込み――何故かガクンと視界が揺れた。
 始め小平太は柔らかい土にでも足を突っ込んだのかと思った。つま先に感じた感触があまりに鈍かったからだ。
 しかしそんなはずはないのだ。今まで走ってきたのだからそれはよくわかっている。
 焦って下を確認しても仕掛けは何も見当たらない。ただ、どういう訳か自分の意思とは関係なく膝が地面に落ちかけていた。
 おかしい。
 けれどそれをつぶさに考えている暇はなかった。
 逃げるの足は止まらない。その背まであと一寸約3cmまで縮まった距離 が再び開きつつある。
 焦る小平太の視界に、烏羽の色が映った。

(悪い――)

 後輩相手に大人気ないかもしれないが、勝負は勝負だ。
 小平太は咄嗟に、目の前に揺れるの髪に手を伸ばした。

「痛っ!?」

 頭頂部に痛みを感じた瞬間、カクンとの顎が上を向いた。
 髪を捉まれた、と理解するのにさしたる間も必要なかった。
 変装用に解いていた黒髪はいつもより掴まれやすい長さだったということを失念していたが、そのことを後悔している余裕など今この時には何処にもなく、は引っ張られて後ろ向きに転びそうになった体を捻り、小平太側に左足を踏み込んだ。
 左手にいつの間にか刃渡り三寸約9cmほどの短刀を握りしめ、振り上げる。
 その動きに躊躇いは無い。
 脅しではなく本気で斬りつけられると感じ、小平太は身構えた。しかし、多少斬られたとしても掴んだ髪を離すつもりは毛頭なかった。
 ここで離せば逃げられてしまう。四肢から力が抜けていくのを感じているが、同じチームの長次が来るまで何とかこの後輩を引き止めなければならなかった。
 髪を引っ張り、体勢を崩した所で体を捕まえて押さえ込めば、力が入らずとも暫く時間を稼げるはずだ。
 後輩の細い体を己の手の届く範囲に引き寄せようと腕に力を込め――小平太の手の一寸先を、短刀が掠めた。

 ザリッ

 奇妙な振動を感じた途端、引っ張っていた重みが途切れ――小平太は呆気にとられた。
 崩れ落ちるのを防いでいた繋がりが無くなって、体が地に落ちる。
 黒い糸のようなものが何本か風に舞うのが見えた。
 まさか――まさか、狙いは髪の毛の方だったとは!
 小平太は臍を噛んだ。
 実戦形式の実習とはいえ、たかだか授業で自分の髪を切るのは、かなり勇気がいる。掴んだ髪の毛はサラストナンバーワンの同輩と比べても遜色ないような綺麗なもので、きちんと手入れをしなくてはこうはならない。そんな手間をかけたものを躊躇もせずに切り捨てるとは、思ってもいなかった。
 自身が苦心して髪を綺麗にしていたわけではない(主に滝夜叉丸の差し金である)が、それを知らない小平太は、後輩だと思って侮ってしまったと悔やんだ。
 しかし、それと同時に感心もしてしまう。
 四年生にしては思い切りのいい的確な判断だ。
 真っ向勝負をしたら楽しいかもしれない。
 状況を無視してそんな気持ちが湧き上がってくるが、全身にかかった靄のような感覚が、今それを叶えさせてくれそうになかった。

「なぁ、これは毒、か?」

 ともすれば、ろれつが回らなくなりそうになりながら聞けば、頭上で首を振る気配が伝わった。

「いいえ、毒ではなくて善法寺先輩特製の麻酔針です。明日の朝までには回復できると思いますので、心配なさらないでください」
「いさ、っくんの……」

 そう言われれば、この痛覚が無くなってしまったかのような不思議な感覚には覚えがあった。
 縫うような怪我をしたときに局所的に使われる不思議な薬。あれが全身に回るとこうなるのか。

「それでは、失礼します」

 律儀な声が降ってくるが、地面に頬をつけた小平太の目には遠ざかる影しか捉えられない。もう、首を持ち上げ れるほどの感覚も残っていなかった。
 走る振動を地面越しに聞きながら、小平太は最後の力を振り絞り、顔の近くまで指をひきつけた。






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